勉強をしました。朱子学に対し、中江藤樹や門人の熊沢蕃山は、明の王陽明がはじめた陽明学を学び、知行合一を主張しましたが現実を批判する傾向が強かったので幕府に警戒され、熊沢蕃山はとがめを受けて処罰されました。一方、山鹿素行・荻生徂徠らはそれぞれ直接に孔子・孟子の説にもどるべきだとして古学派を形成しました。とくに荻生徂徠は、8代将軍徳川吉宗の顧問になり、現実の政治に役立つ学問としての方向を示しました。儒学の持つ現実的・合理的性格は他の学問にも影響をあたえ、歴史学では史料にもとづく実証的研究が行われ、新井白石は「説史余論」をあらわして独自の歴史論を展開しました。自然科学では、本草学・農学・医学・数学・天文学などが、実用に適する学問として発達しました。和算の関孝和が円の研究をすすめたほか、天文学の渋川春海(安井算哲)は当時用いられていた暦の誤りを、みずからの観測結果にもとづいて修正しました。町人の文芸が、上方を中心に展開しました。これを代表するのが井原西鶴・松尾芭蕉・近松門左衛門です。井原西鶴は大坂の町人で、はじめ俳諧で才能を示しましたが小説に転じ、世相・風俗をえがく浮世草子を書きました。好色物の「好色一代男」、町人物の「日本永代蔵」などがその代表作で、みずからの才能や工夫で生き抜く町人の姿をえがきました